上早川の歴史と伝説(その42)

焼山噴火史 ~中川原台地の形成~

前回紹介した早川河原の炭化立木と同じものが昨年の19号台風で崩れた三津屋橋と東北電力取水口の間の斜面でも発見されたのです。

写真中央の黒い部分が炭化立木で、これを埋め尽くすのは中川原台地と同じ火砕流堆積物です。この立木が焼け枯れたのは、前回紹介のカツラの大木と同じ鎌倉時代の1253年なのでしょうか。それとも別の年代なのでしょうか。フォッサマグナミュージアムが依頼しようとしている福島大学木村教授らによる年代測定が楽しみです。

ところで、この炭化立木やこれを埋め尽くす火砕流堆積物は何を物語っているのでしょうか。もちろん、焼け枯れた年代、つまり立木を埋め尽くすような大規模な火砕流が発生した年代が解ることは言うまでもなく、早川谷上流部の中川原台地の形成過程をも示しています。

前回紹介したように上早川の谷はカツラやトチの大木から成る森に覆われていたようです。川の流れの中に森は形成されませんので、鎌倉時代の大噴火の頃は、早川はこの森から離れていたことになります。恐らく早川谷の中央部、現在の県道とほぼ同じあたりを流れ、その周辺に鬱蒼とした森が広がっていたようです。そして、度重なる噴火による大量の火砕流と土石流はこの流れに沿って流れ下り、川を埋め、周辺の森を焼き尽くし、現在の中川原台地のレベルまで早川谷全体を埋め尽くしたことになります。その後、周辺の山々から流れ出た沢水が現在の早川と前川の流れを生み出し、火砕流堆積物の両サイドを浸食したことから、早川の両岸に同じ火砕流堆積物が残ったわけです。

フォッサマグナミュージアムではこの三津屋の炭化立木を災害復旧工事に際して移設したいと考えているようです。私たちの遠い祖先達が苦闘した焼山の噴火を物語る証として何とか活用できないでしょうか。(木島)

ほこんたけ通信20200510(第101号)より