上早川の歴史と伝説(その四十一)

焼山噴火史  ~1253年の噴火~

焼山の噴火による火砕流や泥流が上早川の歴史に大きな影響を与えたことは異論がないところでしょう。そこで、焼山の誕生とされる約三千年前の縄文時代後期から現在に至るまでの噴火史を数回に渡って検証してみたいと思います。

先日、三月十二日(木)の読売新聞に「「ブナの立ち木」焼山より後」と題した焼山の噴火による火砕流によって立ち枯れた大木(東山ファーム対岸)を調査した木村勝彦教授(福島大学・植物生態学)らの研究成果を紹介する記事がありました。これによるとブナとされていた立ち木はカツラとトチで、一二五三(建長五)年秋頃に枯れたと判明したそうです。この年代は樹木の年輪を用いて枯れた実年代を一年単位で明らかにできる酸素同位体比年輪年代法によるものでした。

これまでは、上早川小学校の造成で検出された炭化材の年代から一二三五(嘉禎元)年に火砕流があったとされていたことから、若干の修正を要するかもしれません。いずれにしても、これまでの研究で確認された約三〇〇〇年前を皮切りとする平安時代の八八七(仁和三)年、九八九(永祚元)年、室町時代の一三六一(康安元)年、江戸時代の一七七三(安永二)年の大規模な噴火に加え、鎌倉時代の一二三五年ないし一二五三年にも大噴火があったことを示しています。

1253年秋に焼山火砕流によって立ち枯れたカツラ

この十三世紀中頃は、焼山と同じ富士火山帯に含まれる鎌倉付近でもマグニチュード七クラスの地震に相次いでいます。また、この頃、北陸一円は鎌倉幕府の執権として権勢を誇った北条氏の名門である名越(なごえ)氏の支配地で、山岸遺跡(田伏地内)の大規模な建物跡は、その代官クラスの居宅跡と推されています。つまり、名越氏は本拠で相次ぐ地震、支配地では村落や農地を壊滅させたと思われる火山災害に見舞われたことになります。幕府と繋がりの深い支配地での災害は、どのように報告・記録され、復興されたのでしょうか(木島)

ほこんたけ通信20200410(第99号)より