上早川の歴史と伝説 (その三十一)

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「早川入江説」の検証 ~地名の危うさ~

前号では「早川入江説」の根拠とされた「貝塚の貝」は、実は数百万年前の「貝化石」であり、人類史の遥か以前、フォッサマグナが海であった地質時代であったことを紹介しました。そこで、ここではもうひとつの根拠となった地名について検証しておきたいと思います。

上早川の「土塩」、下早川の「東海」、西海の「西海」や「来海沢」、能生の「指塩」といった「塩」や「海」のつく地名を根拠に「昔は海だった」とする安直な解釈はよくあります。しかし、「塩」のつく地名が最も多いのは海の無い長野県なのです。海岸部より内陸部の方が「塩」をより意識していたものと推察されます。つまり、「塩」はむしろ内陸との繋がり強いと言えます。また、「海」には「広い」といった意味が含まれ、「東海道」や「西海道」は東、西の広い道と解されます。さらに、現在では主要な道を「街道」と表記しますが、江戸時代までは「海道」と記されていました。市内に残る当時の絵図には「信州海道」の表記を確認できます。「海道」とは「広い道」のことであり、「東海」や「西海」は東・西の広いところ解されます。なお、「来海沢」は「胡桃沢」といった表記も確認できます。

早川下流右岸の標高50~130mに営まれた東海集落

こうなると、「塩」や「海」を根拠として「昔は海だった」とする考えは見当違いということになります。海に近いとはいえ東海集落は標高五五⒨前後に営まれ、市総合体育館とほぼ同じです。冷静に考えれば「昔は海だった」とはならないでしょう。(木島)

ほこ通20190410(第76号)より

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